・このページは、新シリーズ「幸福の科学の歴史と私の体験」の記事です。
幸福の科学発足の年・1986年
・今回は、幸福の科学が発足をした1986年のお話をします。
1986年当時のようす
・1986年は、バブルまっただ中の時です。
・商社などは、イケイケどんどんの時で、大川隆法総裁先生が会社を辞めたときは社内でかなりの激震が走ったことは想像に難くありません。
宗教事情
・宗教は、今(2020年現在)と同じ世の中の片隅にいました。
・あの世のことは、今よりも関心がなかったと思います。
(幸福の科学の出現で、あの世の情報はかなり増えたと思います。)
・バブル時代は、新宗教の時代とも言われていますが、それは、幸福の科学が先鞭をつけたと考えられます。
幸福の科学の教え
・霊言を発刊していた時代です。
私の状況と霊言への反応
・当時の私の状況は、「外から見れば絶好調」だけれでも「心のなかでは迷い」というまさに「宗教に出会う」には、最高の状況にありました。
外面的な状況
・外から見れば絶好調だったのは、仕事面(1982年に東大の先生になり、1985年に博士号をとり、1986年は客員研究員として迎えられていたイギリスの大学から帰ってきた年です)でも、家庭面(1983年に結婚して、長男が1984年に生まれていました)恵まれていたからです。
心の中の迷い
・心の中の迷いはいくつかありました。
① 英語のストレス
・イギリスに行っていた当時、英語がうまく話せないストレスはかなり大きいものでした。
・帰国後そのストレスがどれぐらい残っていたかはよく覚えていませんが、研究者の仕事は基本は英語ですので、帰国後も英語のストレスはあったと思います。
② 飛行機のストレス
・当時イギリスに行くのに、南回りで、3回乗りかえをして、1日以上かかった記憶があります。
・1歳半の子供を連れての旅であったこともあって、そのときから飛行機に乗るのがすごくきらいになりました。
・イギリスに行っているときは、「早く帰りたいけど、飛行機に乗るのがいや」という下らないジレンマんで苦しんでいました。
・帰国後は、短時間でも飛行機に乗るのが恐くなり、出張で飛行機に乗らないように苦労した思い出があります。
(「他の人にはどうでもよいと思えることが、本人にはすごく大きな問題である」という話です。)
③ 仕事の不安感
・イギリスから帰った後、私を助手にしてくれた教授が退官の年され、専門分野の違うそれまでの助教授が教授になり、「自分の好きな研究が続けられない」という状況になりました。(結局、そのあと農水省の研究機関の方に転任になりました。)
(ちなみに、当事者がいるので詳しいお話はできませんが、こうした問題で「生きるの死ぬの」というレベルの問題にまで発展した方がいました。)
④ 幸福に対する悩み
・一番問題だったのは、「環境的には絶好調なのに、心の充実感が足りない」ということでした。
・当時の私は、「たとえ、ノーベル賞をとれたとしても、それほど幸福ではないだろうな」という感じを受けていました。
・その理由は、真理にふれるまでわかりませんでした。
霊言の反応
・霊言に対する私の反応は三つあります。
① 拒否
・私が一番はじめに幸福の科学の書籍に出会ったのは、出張先で本屋に寄った時です。
・潮文社の霊言集が並んでいたのですが、「天照大神の霊言」「坂本龍馬の霊言」などのタイトルを見て、「そんなものがあるわけないだろう」と思い、「こういうものが出ているから世の中が悪くなるんだ」と思ったことを鮮明に覚えています。
② 感動
・一番はじめに幸福の科学の書籍に出会ってから、私は霊的な世界にふれるようになり、はじめて買った幸福の科学の経典は『高橋信二の霊言』でした。
・『高橋信二の霊言』を買う前に、『シルバーバーチの霊言』を読んでいたのですが、内容が一致していて、「人生に目的と使命がある」という真実に感動したことを覚えています。
③ 羞恥心
・初期のころ、本屋さんで霊言を買うのがすごく恥ずかしかったです。
・詳しい話は、⇒A9C01「幸福の科学との出会い - 霊言を買うのが恥ずかしい」をご覧ください。
教訓と気づき
・今、考えれば、上にあげた①の拒否、②の感動は一体とのものだったと思います。
・ふつうは読まない本のタイトルを覚えていることはありません。
・本のタイトルを覚えているということは、守護霊が反応したのだと思います。
・気になるものは、好きなもの(人)であろうと、嫌いなもの(人)であろうと「自分の才能に関わりがある」ということだと思いますので、嫌いなもの(人)も大切にすることが大事だと思っています。
お知らせ(2019年12月23日記)
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